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【ネタバレ有】シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

シンエヴァを初日に鑑賞した。

※以下、ネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 

 

エヴァが終わった。長かった。

一言で言えば、よかった、これに尽きる。

この記事では、私がシンエヴァを鑑賞したとき抱いた感情を言語化して記録することを試みる。

 

 

エヴァンゲリオンの終焉

シンエヴァを鑑賞して、シンジの精神はすなわちエヴァという物語の中の世界そのもので、それは庵野秀明の意思そのものだ、とようやく理解した。
シンジの「自分の落とし前をつける」「 父さんの落とし前をつける」という言葉は、作品の中のシンジの決意という意味だけではなく、 TV版、旧劇場版、新劇場版すべてのエヴァンゲリオンという作品ににケリをつけると 言う意味でもあった。

ストーリーの上でも現実のなかでも、本当にエヴァは終わったのだ。

物語に散りばめられた謎の答えが一つずつ明かされていくたび、フィナーレが近いことを悟り、今まで自分の中にあった未完のエヴァンゲリオンに対する感情が一つ一つ成仏していくのを感じた。

シンエヴァは、エヴァンゲリオンの葬式だ、と思う。エヴァンゲリオンという物語と、それに関わるすべてを送り出すための盛大な葬式。

わたしの長い長い思春期が終わって、成仏した。ひとまずわたしは、それで十分だ。

 

アスカとケンスケ

アスカが幸せになってよかった、と心から思う。

「負けてらんないのよ!」「あたしを見て、ママ!」 と言っていた頃のアスカ、自分を見ているようで辛かった。(そのアスカは惣流であって、という話は今は横に置く。最終的な「アスカ」は惣流だったと思っているし、それを迎えに来たのはケンスケだ。) 

あの手合のメンヘラには、「理解のある彼くん」が必要なのだ。
たしかにアスカはシンジが好きだっただろうし、 シンジもアスカのことは好きだったけれど、好き同士の恋愛がうまく行く保証はひとつもない。むしろ、好きという気持ちゆえに傷つけ合うことすらあり、アスカとシンジの関係はそれだったと思う。

ケンスケは、そんなメンヘラに寄り添うことができた。心を閉ざしていたシンジに対する態度を見ればよくわかる。

アスカが求めていたものは愛で、寄り添ってくれる存在だ。そうなると、アスカの隣にいるべきはケンスケしかいないだろう。
メンヘラはなかなか自分の心を矯正してくれる人には出会えないものだ。

あのアスカをよく救ってくれた。大人になったケンスケ、間違いなく結婚したい男だ。

 

私の思春期とエヴァ

私は思春期にエヴァと出会い、 現在30歳になったタイミングでシンエヴァンゲリオンを迎えられたのが僥倖だったと思う。
思春期の頃にはシンジやアスカ、トウジ、 ケンスケと同じ目線でエヴァを見て、 完結する今もトウジやケンスケ、アスカたちと同じくらいの年齢だ。彼らと一緒に、成長できた。
そしてQから9年待って、本当に現実の時間が経って、 30歳になって観るシンエヴァは、ほぼ人生だった。
思春期の私、「オタクならエヴァ履修しなきゃ」、 と思ってくれてありがとう。
一番ベストなタイミングでエヴァに出会ってエヴァを終われた気が する。

思春期のわたしはミサトさんの気持ちや行動の理由は一切わからなかったけど30歳になった今ならわかるし、 親になったミサトさんの気持ちもそのうちわかっていくんだろう。

エヴァンゲリオン、人生だ。

 

エヴァの喪失に寄せて

喪失感が激しい。
碇シンジの迷いそのものがエヴァだったし、 庵野ふざけんながエヴァだった。 そしてそこに私のモラトリアムを預けていたような気もする。
もう碇シンジは迷わないし、 庵野秀明はその手でエヴァを終わらせた。
エヴァを追いかけ続ける私も、もういない。 なぜなら満足してしまっているから。
私の中のエヴァも、 物語のエンディングを迎えたことでいなくなったのだ。

エヴァについて深く考えてみて、私にとってのエヴァ碇シンジ庵野秀明とわたしの境界が曖昧になって混ざる 、LCLのようなものだったのかもしれないな、と思った。
もうエヴァもいないから、LCLもない。

 

さよなら、すべてのエヴァンゲリオン。わたし、大人になったね。